第1回・富岡八幡宮を味わい尽くす①まずは創建
さて、「新・深川のススメ」まずはなにはさておき、「富岡八幡宮」であります。
昨年、この神社には大変なことがありました。この件にまつわる「歴史」については、ずーっと後で触れる予定ですが、まあ人間のもめごとは、神様にはカンケイございません。とりあえずほっときましよう。
この「富岡八幡宮」は、東京では最大の八幡宮、なのであります。「江戸随一」の八幡宮として、江戸時代から現在に至るまで、たくさんの参拝客でにぎわっております。とにかく八幡宮としてはすごく有名。関東でここより有名なのは、あの鎌倉の「鶴ケ岡八幡宮」だけでしょう。
この富岡八幡宮は、江戸時代の1627年(寛永4年)、長盛法印というお坊さんが「夢のお告げ」に導かれて創った、と言われています。江東区の砂町(当時砂村)にあった(てか今でもある富賀丘八幡宮)がもともと大変有名で、太田道灌も信仰していた、というくらい由緒のある八幡宮であったのですが、いささか辺鄙な場所にあるし、洪水の多かったらしく、これを長盛法印さんが深川のこの地にあらためて祀ったのであります。
で、富岡八幡宮できた寛永年間、三代将軍家光の時代で、大坂夏の陣が終わって十年ちょっと、徳川幕藩体制がやっと始まった、という頃です。
このころ、富岡八幡宮あたりにはなーんにもなかった、のであります。写真の大鳥居のすぐ向あたりは砂浜で、佃あたりの漁師たちが、使っている網を干すための「網干場」だったし、
この大鳥居のすぐ向こうあたりから「海」だったのです。
今の八幡橋あたりも浜辺だったのであります。
八幡橋あたりからすでに浜だった。
この鳥居から向こうはもう海だった。
そもそも深川という名称もなく、「永代島」と呼ばれていた「島」だったんですね。住んでいるのは魚を取る「漁師」たちです。
このなーんにもない島に「富岡八幡宮」がつくられ、この八幡宮を中心として、町が形作られていった、のです。
で、この富岡八幡宮を創建したのが、なんで長盛法印という「お坊さん」なの?という疑問。
まあ、そうですよね。
しかし、歴史を振り返ると、日本人は江戸時代まで敬虔な「仏教徒」だったのであります。天皇陛下だって、奈良の昔から仏教徒だったくらいですから。
そして仏教は次第に神様を「仏」化していき、神様はだんだん仏教の仏様のひとり、になっていきます。これは世界中の仏教国で起こったことで、スリランカのお寺にはヒンドゥー教の神様が仏としてたくさん祀られています。日本でもこれに近い状態になってきます。
そして江戸時代、キリシタン弾圧とともに、仏教は幕藩体制の支配体制と結びつき、「檀家制度」のもとに、日本人は全員どこかのお寺の「檀家」にならなければいけなくなり、その檀家組織をもとにした「人別帳」がつくられ、戸籍として幕府に管理されるようになります。そんな中で、神様は「神仏混交」によって仏教に組み入れられていきます。
まあ、そういう話はともかく、八幡様は神様だけど、当時は仏様みたいなものだった、ということなんでしょう。だからお坊さんが富岡八幡宮を作った。
しかし、やはり神社は神社、なので、お坊さんだった長盛法印は、別途、「永代寺」というお寺を作ります。永代島にあったから永代寺、であります。そもそも、長盛法印の目的は永代寺を作ることだったんでしょう。八幡宮は永代寺を作るための方便だったんじゃないかな。
で、永代寺は「富岡八幡宮別当」として、八幡宮よりはるかに広大な敷地を獲得し、長盛法印はそこの住職に納まります。力関係としては、浅草の浅草寺と、浅草寺の中の「三社祭」の神社の関係、みたいな感じ、です。お寺のほうがはるかにでかく、神社は付属品。
でも、この富岡八幡宮に関しては、人気があったのは「付属品」だったはずの富岡八幡宮。江戸時代に描かれた「江戸名所図絵」なんかを見ても、「永代寺」なんて一言も出てこなくて、すべて「深川八幡」。実際には永代寺の敷地内にあったものも含めて、すべて「深川八幡」になっております。そのへんが、面白いところなんですよ。
あんまり長くなっても、なので、このあたりを含め、富岡八幡宮については「次回に続く」です。
お楽しみに!!