第三十九回 「紀伊国屋文左衛門の墓」

三好町「成等院」の紀伊国屋文左衛門の墓。

前回に引き続き「お墓」シリーズ、今度はあの有名な「紀伊国屋文左衛門」の墓です。場所は、江東区三好の、深川江戸資料館の一本手前のとおりにある小さなお寺、成等院。あまり小さくて、完全に見逃してしまう場所にあります。墓地の一角が立派に整備され、「紀伊国屋文左衛門の墓」を記念する場所となっています。

紀伊国屋文左衛門の墓。古いものなのは確かなようなので、本物であるのは間違いないでしょう。

お墓そのものよりはるかに立派な石碑。

「紀文会」なんて立派な会もあったんです。

なんと、当時の和歌山県知事も、寄贈者に名を連ねています。紀伊国屋文左衛門は、もちろん和歌山の誇りなんですね。

寄進者はおもに木場の人ですが、大きいのは紀伊の人が多いようです。

写真のとおり、お墓そのものは、古びた小さなもので、たぶんお墓に何が刻んであるかもすでに定かではないでしょうね。しかし、お墓のとなりには立派な碑が立てられ、玉垣がめぐらされ、紀伊国屋文左衛門を顕彰する雰囲気でいっぱいです。玉垣に刻まれた寄進者の名前は、主に木場の人ですが、紀州和歌山県の人も多く名を刻まれ、当時の和歌山県知事の名前まであります。紀伊国屋文左衛門は、深川だけでなく、当然和歌山の誇りでもあるのだ、とわかります。

以前から、この「深川のススメ」で書いていますが、江戸、元禄時代の豪商、紀伊国屋文左衛門については、実際には詳しいことがわかっていない。このお墓にしても、「墓所一覧遺稿」という本に、紀伊国屋文左衛門の墓だ、と記されているだけで、これがあの伝説の紀伊国屋文左衛門の墓であるか、それとも別人の、同姓同名の紀伊国屋文左衛門の墓であるかは不明なのです。紀文について言われていることは、実際にはこの「墓所一覧遺稿」に依っている部分が多く、姓は別所で、俳人其角の弟子で俳号千山である、というのも、この記述に基づいてそういわれているだけで、この文左衛門が、あの豪商本人であるかがわからない以上、紀伊国屋文左衛門がそういう人だったかはわからないのです。

紀伊国屋文左衛門は、上野寛永時の建築材納入で財をなし、豪商としてのお大尽遊びや、紀州ミカン伝説などが有名です。ちなみに、江戸時代には紀州ではミカン栽培はやってなかったらしいので、ミカン伝説は、たぶんのちに和歌山県で作られたものじゃないでしようかね。のちに家運衰え、深川八幡宮一の鳥居、現在の門前仲町一丁目で不遇のうちに死んだ、といわれています。

で、ここからはわたしの想像です。たぶん明治時代に、何かの拍子に、この「紀伊国屋文左衛門の墓」と墓誌が「発見」された。「あの伝説の豪商紀伊国屋文左衛門の墓が深川にあった」という発見は、当時の深川の人たちに大変な話題になったことでしよう。というのは、たぶんそれ以前には、伝説の豪商紀伊国屋文左衛門と深川を結びつける手かがりはなかった、と思われるからです。そして、深川の人間にとって、紀伊国屋文左衛門は「深川の誇り」のキャラクターに成長していきます。

で、まず、材木商の町木場はこの紀伊国屋文左衛門が創始したものとされた。関東大震災で焼失した八幡宮の三基の金張りの「黄金の本社神輿」は紀伊国屋文左衛門の寄進に違いない、となった。また、清澄庭園は、紀伊国屋文左衛門の別邸であった、となりました。これなんかは完全な作り話ですが、かなりの間信じられてましたし、かつては庭園の沿革にも確かそう書いてあったような・・・・・

そうして、なんでもかんでも、深川っ子の誇りとするものは、紀文と結び付けられるようになった。そしてもちろん、このすでにぼろぼろで墓に何が刻んであるかもわからない、紀文の墓として発見される以前にはきっと、無縁墓として処分される寸前だったかもしれない、成等院の「紀伊国屋文左衛門」の墓も、写真で見るように立派に整備されるようになった、ということでしょう。写真で見るように、「紀文会」なんて立派な会もあったようだし、木場の人たちにとっては特に誇らしい存在で、多くの木場の人が玉垣を寄進しています。また、紀州和歌山の人たちにも、紀伊国屋文左衛門は誇りであるようで、なんと和歌山県知事まで玉垣を寄進しているわけですから、紀文がいかに多くの人に誇りにされていた伝説の人物であったかがわかります。

紀伊国屋文左衛門は、この墓の「発見」とともに、深川の誇りであるところの伝説の人物としてよみがえった、といえるでしよう。

しかしながら、この「紀伊国屋文左衛門の墓」は、玉垣の内部が地震で倒壊し、立ち入り禁止となっています。地震から一年以上たった今もなお、再整備されず立ち入り禁止のままです。成等院自体が大変小さなお寺ですし、地震の被害は本堂や檀家の墓地にもあったでしょうから、そっちの修繕が先決で、紀伊国屋文左衛門の墓までは手が回らない、ということなのでしょう。それに、ここの玉垣を整備した頃の「紀文会」のひとたちはすでに代替わりし、もう「紀文会」も消滅しているかもしれない。紀伊国屋文左衛門伝説を身近なものとして誇りに思う文化も、この深川から消滅しつつあるし、そもそも木場の材木商も企業化して新木場に移ってしまいました。こんななか、この「紀伊国屋文左衛門の墓」の再整備にお金を出してくれる人は、もういないのかもしれません。

というわけで現在も立ち入り禁止のままの「紀伊国屋文左衛門の墓」、深川にいらしたら、ぜひ前を通ってみてください。紀伊国屋文左衛門がいかに、深川の人たち、そして紀州の人たちに愛され、誇りに思われていたかが如実にわかりますよ。

(この記事は2012年に書かれたものです)

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