第三十五回 「大山参りとお富士さん」

お富士さんにあった?かもしれないお社。石尊山の痕跡は、残っていないようですねー

富岡八幡宮の富士浅間神社うらのお富士さんの碑。なんでお富士さんなくなっちゃったんでしょうね

かつて、この「深川のススメ・第六回・大鳥神社とお富士さん」で、八幡宮裏にかつてあった「お富士さん」について紹介しました。富士山信仰の象徴的な存在で、富士山を信仰するひとたちが、一生に一度、行けるか行けないか、であった富士山に見立てた築山を作って、これを信仰したものです。東京都内には現存する「お富士さん」はいくつかあります。

しかし、この「お富士さん」、あらためて調べてみると、とても面白いことがわかります。実はこの「お富士さん」、もともとは富士山ではないのです。もとは「石尊山」という名前で、将軍吉宗の時代に作られ、その頂上に石尊大権現社が建てられた、ということです。この「石尊権現」ってなんだと思います? これは神奈川県の大山にある大山寺のなかにある神社なんです。

大山寺。写真は大山寺のホームページから

大山は、現在でも篤い信仰を集めている霊山です。山頂近くに「大山寺」と呼ばれる一連の寺と、「阿夫利神社」がありますが、両方とも江戸時代までは同じ大山寺の中にあったもので、明治の廃仏毀釈などを経て別々になったものです。大山は真言密教の山岳信仰の寺として、江戸時代、江戸の庶民から篤い信仰を集めていました。江戸から比較的近い江ノ島神社とともに、「大山参り」は江戸庶民には一般的な娯楽だったようです。「大山参り」は寺社参詣、であると同時に、行き帰りの宿場での遊興、博打なんかが楽しみであった、まさしく物見遊山、であったのです。落語に「大山参り」というのもありますよね。

大山寺の伽藍。大変立派なものです。これを機会に、今度行ってみることにしましょう。

阿夫利神社。写真は阿夫利神社ホームページから。ホームページを読むと、もとは同じだったのに、阿夫利神社と大山寺は中が悪そうなのは、深川不動尊と富岡八幡宮に似てる?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つまり、もともと八幡宮裏にあった「お富士さん」は「大山さま」だったんですね。当時の江戸には、大山参りの「大山講」というのが沢山あって、その人たちの信仰を集めていたのが、この「石尊山」だったのでしょう。

それから100年後、文政年間に、この「石尊山」の麓に「富士浅間神社」が作られると、今度はこの石尊山は、一気に「お富士さん」へと変わります。つまり、この100年のうちに、庶民の人気は、大山から富士山へ、移っていたんでしょうね。これは大変興味深いことです。

富士山は「万葉集」にも歌われていて、奈良時代から霊山としてあがめられていたようです。しかし、この「駿河なる富士の山」を歌ったのは、みな都の側の人です。同じ万葉集でも、東国の人の歌を集めた「東歌(あづまうた)」には富士山を歌った歌はありません。関東の人にとって、富士山は遠くに見える美しい山として認識はされていても、箱根の向こうにそびえる富士山は遠すぎたんでしょう。江戸時代中期まで、富士山に対する庶民の認識は、「美しい山だけれど、遠すぎてとても行けない」というものだったのではないでしょうか。

だから、もっと近くて気軽に行くことの出来る「大山参り」が江戸庶民の山岳信仰を一手に引き受けていた、ということなのでしょう。しかし、江戸後期に入ると、江戸庶民のなかにも、整備され発達した東海道を旅して富士山へ行くことの出来る人たちが、多数出てきた、のです。それだけ、江戸の庶民にも豊かな人たちが多数出てきた、ということなのでしょう。 その後、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が書かれるように、江戸に東海道の旅ブームが起き、幕末の「お伊勢参り」の大ブームへとつながっていきます。

「お富士さん」も、このような江戸庶民の旅と信仰の変遷によって成立したものなのです。もともと「大山信仰」だったものが、街道の発達と、江戸庶民が豊かになったことによって、「富士山信仰」へと変わる。「富士山は日本人の心のふるさと」などといいますが、それはじつは、関東の人間には太古からのことではなく、やっと江戸の後期、十一代将軍のころになってからはじめて、人々は富士山に実際に親しむようになったのです。 これって、実に、興味深いことです。

以前にも書きましたが、「江戸名所図絵」に「深川八幡山開き」というのがありますし、鶴屋南北に先がける歌舞伎作者、並木五瓶の作品に「富岡八幡恋山開(こいのやまびらき)」というのがあります。江戸の庶民にとって、永代寺にあった庭園が春「山開き」と称して一般公開されるのが江戸の風物詩であったようです。そして、この「山開き」という言葉からもわかるように、この庭園の公開は、多分この「お富士さん」の山開きの意味だったのでしょう。この庭園は、八幡宮のオーナーであった永代寺のものなのですが、江戸庶民にとっては、深川は八幡宮、であったので、「深川八幡山開き」などいわれたのでしょう。この「お富士さん」がもともと、真言密教の山岳信仰である大山寺の石尊権現「大山様」であるとすると、この山が、永代寺にあった理由は明快です。永代寺ももちろん、真言密教ですから。しかし、これが「お富士さん」に変わった。お富士さんは「富士浅間神社」です。そもそも石尊大権現も神様ですし、当時の神仏習合の時代では神社でも寺でもどっちでも変わりは無かったと思いますが、浅間神社は真言密教の山岳信仰とは別のもので、つながりがない。この時点で、「お富士さん」は、永代寺のものであることを離れていき、八幡宮のもの、という認識が、当時の人々の認識に強まっていった、と考えられるでしょう。そして、「お富士さん」は、永代寺廃絶後、富岡八幡宮のものとして残ります。八幡宮の「お富士さん」は現存しませんが、現存する「お富士さん」がすべて、神社の境内にある、のはその経緯を考えると、とても面白いことといえます。

長々と書きましたが、いずれにせよ現存しない八幡宮の「お富士さん」を、八幡宮の富士浅間神社とその裏手の碑で、偲んでみてください。

(この記事は2010年に書かれたものです)

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