第三十四回 「八幡橋あたり・木場の思い出」
「日本最古の鉄橋」というと、なにか、すごく立派なものを想像しますよね。だから、この八幡橋を訪ねる人は、なかなかこの橋にたどり着けないようです。まさか、「日本最古の鉄橋」がこんなこぢんまりしたもので、なおかつ川の上にかかっているわけではない、ということは、なかなか想像と違いますからね。
この八幡橋は、東京で最初の鉄橋であり、日本でも最古に属する鉄橋だそうです。もともとここにあったわけではなく、明治11年、京橋のほうの川にかけられた「弾正橋」だったそうです。で、そこに、関東大震災後の復興計画で、新たな橋がかけられることになり、御用済みになったこの橋が、「八幡橋」と名を変えて、昭和4年に、ここにかけられたのです。
この橋の下は、八幡掘と呼ばれる掘割でした。江戸時代に八幡宮が作られたころは、まだこのあたりは浜辺であったそうです。そのあと、このむこうに「三十三間堂」が建てられた時に、掘割として整備され、「八幡堀」と呼ばれるようになったのです。わたしが小学校のころは、まだこの八幡堀はありました。現在高速道路が走っているところが「油堀」とよばれる掘割で、そことつながる小さな掘割でしたが、つねに材木をつないだ筏が浮かんでいましたね。この先の八幡宮の裏の小学校がわたしの母校ですが、この小学校から橋の向こう側に帰る子供たちの通学路です。今でもそうで、この橋には今でも子供たちの声が響いています。わたしも、橋の向こうの同級生の家に遊びに行くときは、この橋の上で八幡堀に浮かぶ筏をひとしきり眺めてから、走っていったものです。
この橋の向こうは、材木問屋がたくさん並んでいました。橋の向こうも町名は富岡で、まだ木場ではないのですが、わたしにとっては、この橋の向こうはすでに木場でした。この先の同級生の家はたいてい、材木屋の家でしたから。橋の上から眺めると、橋の向こうに、材木が軒先一杯に立てかけられた材木問屋が立ち並んでいるのが眺められました。はじめて橋の向こうの友達の家に行ったとき、この橋を渡りながらすごく興奮したのを覚えています。
昭和49年、高速道路の建設に伴い油堀が埋め立てられました。以前にも書きましたが、高度成長期、街の景観を守ろう、なんて、誰も言わなかったんですね。この八幡堀は、本線の油堀が埋め立てられた後も、しばらくそのまま放置されていましたが、埋め立てられて、そのあとずいぶんたってから、現在の八幡堀遊歩道として整備されました。
この八幡堀遊歩道、短いですが、なかなかいい遊歩道です。江東区の植樹政策は、いくら日本人が桜好きといっても、とにかくどこもかしこもソメイヨシノだらけで単調極まりないのですが、ここは、もちろんソメイヨシノもたくさん植えられていますが、大島桜あり、花水木あり、小手毬あり、バラあり、つつじあり槿(むくげ)あり、、と、それなりのバリエーションがあり、四季折々歩いていて気持ちがいいです。ところで話はそれますが、わたしが子供のころには、夏といえばそこらじゅうに夾竹桃が咲いてました。それも白はなくて、赤ばかり。夾竹桃って、ほっとくと葉がばさばさ伸びてなんか見た感じがきたなくなるんですよね。だからわたしは、夾竹桃が嫌いでした。なんかびんぼくさくて。でもその後、夾竹桃はどんどんなくなり、今や夏はムクゲの花だらけです。槿の花もきれいなのですが、こうどこもかしこも槿だと、さすがにうんざりします。最近は夾竹桃がかえって恋しくなったり。たまに夾竹桃の花が咲いているとうれしくなります。最近は夾竹桃もきちんと剪定されてびんぼくさくないし。
四季折々の花が咲くこの遊歩道から見上げる八幡橋は格別の風情です。この橋の特徴でもある菊のご紋もくっきり見えます。このそばには、最近移築された「新田橋」の遺構もあります。大正時代に木場にかかっていた橋だそうで、地元に親しまれた名医の名にちなむ名前だそうです。映画やドラマの舞台になった、と聞くと、ちょっと興味がわきますよね。
筏の浮かんでいた掘割はなくなり、橋の上から見えた材木問屋もなくなり、景色は移り変わりました。変わっていないのは、この橋を渡るランドセルをしょった小学生たちのはしゃいだ声。そんな子供たちの声を聞くと、わたしも一瞬、小学生だった自分に戻る気がします。「日本最古の鉄橋」八幡橋、観光で来られたかたや、新住民の方には何のことはないこの場所ですが、ここに育った人間には、たくさんの思い出の詰まった場所です。ぜひ一度、ここを訪れてみてください。
(この記事は2009年に書かれたものです)