第二十九回 「深川の花街・江戸のグルメタウン」

さて、洲崎、錦糸町と新旧の繁華街を紹介してきましたが、今回は深川、門前仲町界隈の、かつて粋でいなせな花街として栄華を誇った花街の名残を、ご紹介しましょう。

江戸時代の深川は、「川向こう」という蔑称があったくらいのもので(私が子供の頃までは、隅田川の東側を「川向こう」と呼ぶ蔑称は存在してましたねー)、やはり新興地であり、町としては格が下だったようです。ただ、その分自由さがあり、新しいものがどんどん出来る、いきいきとした街だったようです。

深川といえば、富岡八幡宮の参拝ややその庭園見物、そして岡場所、と呼ばれた、吉原の公娼街より格の落ちる遊郭での遊び、江戸っ子たちは、深川をしばしば遊びのために訪れていたようです。そして岡場所通いや、物見遊山の人々のもうひとつの楽しみは、江戸一のグルメ・タウン、深川の料理茶屋での美食でした。深川の料理茶屋は、庶民のための新興街であった深川のことですから、高級料亭ばかりではなく、庶民的なものが多かったようです。ですから、庶民にとってのグルメとは、まさしく深川だったんでしょうね。

その中でいわば三ツ星料理茶屋として名をはせたのが、「平清」。土橋という深川の岡場所にあり、会席料理で有名だったそうです。江戸の文化文政年間から明治の終わりごろまで暖簾を守った名店で、明治の元勲や経済人たちが、足繁く通った、という記録も残っています。そのほか、八幡宮の辺りにあった、「伊勢屋」「松本」などが、評判の店として記録に残っています。店の裏が河岸になっていて、猪木船や屋形船で「松本」に乗りつける、というのが、風流な江戸っ子のステータス、だったようです。

深川の名物料理、といえば「うなぎ」だったそうです。なるほど、川の町深川らしい、といえますね。現在の深川界隈にも、うなぎ屋は何軒かありますが、昭和の時代には、八幡宮の向かいに「みやかわ」という黒塀に囲まれた、格式高い、江戸の料理茶屋の雰囲気を漂わせた名店があったそうです。谷崎潤一郎の随筆にも取り上げられ、大変有名だったようですが、昭和40年代で廃業しています。料亭って、つぶれるんですよね、格式の高いお店ほど。そんなに昔になくなったお店なのに、今でも時々、この「みやかわ」のことを訊ねるお客様が其角にもいらつしゃいます。みなさん、大昔にもう、なくなっている、ということをお話しすると、びっくりされますけどね。

うなぎ割烹の「かね松」の別館。いい雰囲気でしょう?

「かね松」の入り口。この入り口を、一度くぐってみたくなるでしょう?

現在、深川で、料理割烹としてうなぎを出しているのは、写真の「かね松」だけですね。写真は永代通りから一本入ったところにある別館。なかなか粋な感じの建物でしょう?最近はあまりなくなりましたが、それでもいまでも、ときにはこの「かね松」から、三味線や太鼓のにぎやかな音が聞こえてきます。芸者さんを呼んでの宴会、ですね。わたくし其角主人も、一度ここで芸者さんをよんでの宴会に列席した事があります。全くの不調法なので右も左もわからないまま終わりましたが、いい経験でした。

そのほか、其角のすぐそばにも「みまき」という割烹があって、黒塗りの車がずらっと止まって、きれいどころがそぞろ歩いて、という光景が、よくありました。でも、その割烹も今はありません。

花街のメーン・ストリート。まだ、かつての料亭街の雰囲気はかろうじて残っています。

花街の入り口にかかる門。昔からありますが、今や歯抜けに空きがあるのが、少しさびしいです。でも、いかにも花街、という雰囲気です。

深川の花街のメーン・ストリートは、其角とは永代通りをはさんだ反対側の二本の細い裏通りです。ここには、かつて、料亭がずらっと並んでいたのです。さて、その話は次回、今日は「深川の花街」のプロローグ、次回、かつての華やかな花街のお話を、私の思い出を交えてお話ししましょう。

(この記事は2007年に書かれたものです。かね松は存在しますが、かね松別館は現存しません。)

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