第二十七回 「洲崎の遊郭・洲崎の面影」
さて、いよいよ、洲崎シリーズ最終回。次に紹介するのは、遊郭跡として本で紹介されている建物として、上の写真の、青いタイルの美しい建物。小さな建物ですが、美しいタイルの装飾、凝った二階の窓枠、なかなか目を引く建物です。
左の写真で見てもらうとわかりますが一階にはもともと、三つドアがあったようで、前回紹介した、「ちょんの間」の要件を備えていたと思われます。ただ、本当にそうなのか、真偽は不明です。いずれにせよ、こういう歴史的な建物が残っている、というのは喜ばしいことです。
旧遊郭の建物を探していると、もしかしたらただの普通の家かもしれない建物も、旧遊郭に見えてきます。左の写真がまさにそれです。どうみても普通の家ですが、一回の三つの入り口と、それにピッタリ対応する二階の三つの窓、「もしかしたらこれも」なんて思えてきます。全然真偽は不明なのですが。左の三つめの写真の建物も、実は、本で旧遊郭、として紹介されている建物なのですが、私が見たところでは、どこが旧遊郭だかわかりません。でも、なんとなく風情のある小路ですよね。
この洲崎の遊郭で働いていた女性はどんな女性たちだったか、というと、戦前までは、完全に人身売買で売られてきた女性だったそうです。貧しさから親兄弟によって遊郭に売られてきた女性たち、まれには、恋人に売られてきた女性などもいたようです。もちろん、借金を返せば自由の身になれるのですが、やれ食費だの、部屋代だの衣装代だの差し引かれていくと、残るものはほとんどなく、借金を肩代わりしてくれるパトロンを見つけない限り、解放されることはなかったようです。
敗戦とともに、進駐軍は遊郭での人身売買を問題視し、遊郭そのものはつぶしませんでしだが、人身売買による売春強要は禁止したのです。それとともに、「あたらしい解放的な遊郭」をイメージするために、一般に女郎や娼妓と呼ばれていた女性たちは「女給」と呼ばれるようになります。「女給」というのは、もともと「カフェーの女給」と呼ばれる、今で言う銀座あたりの高級クラブの女性をさす言葉でした。それを遊郭の女性たちを呼ぶ言葉に転用したわけですが、もともと「女給」を名乗っていたカフェーの女性たちは、遊郭の女性たちと一緒にされてはかなわない、と、自分たちを「ホステス」と呼ぶようになりました。これが、戦後、クラブ・キャバレーの女性を「ホステス」と呼ぶ、その語源になるわけです。今では、ホステスも使わなくなりましたねえ、コンパニオンとか、フロア・レディとか、そういう風に呼びますね。あ、キャバクラ嬢ともいいますか。
進駐軍が人身売買を禁止したとはいえ、実態は、遊郭で働く女性たちはみんな、人身売買で売られてくる女性であり続けたようです。戦後、完全に和風であった洲崎の遊郭も洋風の遊郭が増え、ずいぶん変化したようですが、働く女性たちの悲惨な境遇に変化はなかったようです。
戦後、パリでも、パリ名物だった娼館は廃止されます。それにともなって、娼館の女性たちはブローニュの森あたりに移って行ったのです。娼館の廃止は、戦後の世界的潮流であったようです。この流れは、市川房江らの政治家によって、日本でも、「売春防止法」という形で結実します。当時の状況を考えれば当然の流れとはいえ、当時の男性社会の中でこの法律を作り上げた市川房江や周囲の人々の偉大な努力には頭が下がります。この法律が、多くの悲惨な女性たちを救ったわけですから。そして昭和33年3月31日、売春防止法の施行にともない、各地の遊郭とともに、洲崎の遊郭の灯も消えます。深川のひとつの名物だった、洲崎の遊郭は、この日、消滅しました。
今回取り上げた建物は、本などを参考にして、これは旧遊郭の建物に違いない、と私が勝手に推測して掲載しているに過ぎません。ですから、間違っていたら、ごめんなさい、です。ですから、もし、これを読んで、旧洲崎界隈にお出かけになろうと思い立った方がいらしても、決して、ご紹介した建物の前で「これが旧遊郭かア」なんて大声をだしたりは絶対しないでください。苦情が来たら、このページを抹消しなければならなくなります。よろしくお願いします。
今回の洲崎シリーズは、「赤線街を歩く」(自由国民社)を大いに参考にさせていただいています。ちなみにこの本、絶版ですが。
(この記事は2007年に書かれたものです)