第二十四回 「もうひとつの清澄庭園」

三野村利左エ門って知ってますか?まあ、普通知らないですよね。でもこの三野村利左エ門、調べてみると、実に面白い人なんですよ。なおかつ深川の秘められた歴史に、深く関わっているひとなのです。

三野村利左ェ門は、幼くして、江戸の大商人、三井家に奉公に上がります。時は幕末へと向かう激動の時代、利左エ門はめきめきと頭角を顕し大番頭となります。三井はもちろん、幕府の御用商人で、両替商として幕府の資金調達を担当していました。しかし、幕府は倒れ、明治政府の時代へ。しかし、三井は、幕府が倒れる寸前まで、ここで幕府を見捨てては商人として信用を失う、と、幕府を助け続けました。だから、明治政府からはにらまれて当然、政商三井の運命は風前の灯、と思われました。

しかし、三井の大番頭、利左エ門は、その才覚と人徳で、明治政府の元勲たちの信用を勝ち得、明治政府の御用商人として政府の資金調達に活躍することとなります。奉公人上がりの利左エ門は、文盲に近かった、といわれていますが、にもかかわらず、渋沢栄一などのヨーロッパ帰りの秀才たちと互角に渡り合い、後の三井銀行を創設したり、新政府の下、明治経済の草創期に、三井を財閥の一角にのし上げる活躍をします。言ってみれば、三菱財閥の総帥が岩崎弥太郎であったのに対し、三井財閥の総帥は、奉公人上がりの大番頭、三野村利左エ門だったのです。考えてみれば、これってすごいことですよね。

このあたり一帯、「もうひとつの清澄庭園」だったんですよねぇ、想像すると楽しいです。

で、利左エ門は、三井家から、その偉大な功績を讃えられ、現在の清澄町あたりに、広大な土地を贈られたそうです。そして、その土地に、岩崎弥太郎の「深川親睦園」現在の清澄庭園に匹敵する素晴らしい庭園を造り、三菱の清澄庭園と三井三野村の庭園とがとなりあわせで競いあった、ということなのです。つまり、現在の清澄庭園のとなりに、それに勝るとも劣らない三野村利左エ門の造った広大優美な庭園があり、それが競い合っていたのです。想像するだけで、ワクワクしてきますよね。

株式会社三野村の全景。休日だったのでシャッターが閉まっております。

株式会社三野村の壮麗な入り口彫刻。会社はもちろん、やってますよ。

残念ながら、利左エ門の造った庭園は、なぜだかわかりませんが、今はもうあとかたもありません。現在、三野村利左エ門の名を今に残しているのは、写真にある「株式会社三野村」だけです。この会社、社名からして、三野村利左エ門の末裔の会社であることは、間違いないのですが、何をやっている会社か、とかは、まだ調査してません。また、この会社がこのあたり一帯の大地主であるかどうかも。でも、写真にある、この素晴らしい彫刻の施された入り口を見ただけで、感動ものですよね。ちなみに、この建物は昭和初期に建てられたものだそうです。深川界隈には、こういったタイプの洋風建築はほとんど残ってませんから、非常に貴重です。日本橋、丸の内界隈には、このような凝った彫刻の施されたビルがいくつかありますが、全て大ビルディングですから、この規模の建物で、このような建築は、非常に珍しいもの、といえるでしょう。

清澄庭園にいらしたら、清澄庭園からとおりひとつ隔てた、清洲橋通り沿いのデニーズのそばにある、この「株式会社三野村」の素晴らしい建物をご覧になってみてください。そして、このあたり一帯にあったという「もうひとつの清澄庭園」を思い浮かべてみてください。そして、奉公人上がりから、激動の時代に三井財閥の基礎を作り上げた、三野村利左エ門にも、思いをはせて見てください。

(この記事は2007年に書かれたものです)

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