第二十一回 「採茶庵と芭蕉・奥の細道」
「深川のススメ」は、其角せんべいの近辺を少しだけはなれて、清澄通りを北上します。清澄通り沿いの、川のほとりにある「採茶庵跡」の碑です。「採茶庵」は、江戸中期の俳人、杉山杉風(さんぷう)の庵室です。俳人としての杉風は、現代では無名ですが、芭蕉の弟子であり、そのことで、いろいろ有名な人なのです。
杉風は、幕府御用商人の魚屋で、裕福だったんですね。そして、俳句好きで、当時、最も有名な俳諧師だった芭蕉の弟子となり、俳句を詠み、そして、その財力で、芭蕉のパトロンとなったのです。ここからもう少し北にある、「芭蕉庵」は、杉風が、芭蕉に贈ったものです。そして、あの「奥の細道」の冒頭を飾るのは、この「採茶庵」です。「奥の細道」の旅に出るため、芭蕉は「芭蕉庵」を引きはらい、この「採茶庵」に逗留し、ここから、旅に出ます。ここで詠まれた句が
草の戸も住み替る代ぞひなの家
当時の江戸では、俳諧というものは、絶大な人気があったようです。当時は、五七五の俳句を単に詠むのではなく、五七五の上の句を詠んだあと、別の人が七七の付け句をし、またそれに、五七五を別の人が付け、そしてそれに七七をつけ、といった「連句」のをするのを「俳諧」と呼び、その俳諧をする句会を開いて、そこに、有名な俳諧師を招いて、一緒に連句を楽しんだようです。江戸の裕福な商人などは、競って俳諧をたしなみ、有名な俳諧師の弟子となり、彼ら俳諧師のパトロンとして俳諧師の生活を支えたのです。杉風もその一人、です。
私どもが屋号に名前を拝借している宝井其角も、芭蕉第一の高弟でしたが、医者の息子で、吉原あたりで遊びつくしたりする放蕩もののお金持ちだったようです。当店「其角」の初代も、なかなかそういう人だったらしいので、そのあたりが気に入って、店名に拝借したのかもしれません。
当時、俳諧師として生活していくためには、単に実力とか名声だけでなく、金持ちを弟子にして、パトロンにする、そういう世渡りも必要だったのです。芭蕉は、「奥の細道」の旅の中で、旅先の土地の有力者の家によく滞在し、そこで句会を開いています。芭蕉は日本中に名を知られた有名人だったようで、旅籠に泊まるより、土地の名士の家に泊まっているほうが多いくらいです。芭蕉くらいになると、芭蕉を招き、芭蕉と句会をともにする栄誉に浸りたいお金持ちが、各地にたくさんいたんでしょうね。
この「採茶庵」跡の碑は、もともと、現在ある位置ではなく、橋のはす向いの場所に、植え込みに隠れてひっそりと建っていましたが、さすがに江東区も、これではまずいと思ったのか、現在の場所に移し、それらしい建物も建てて、やっと日の目を見ました。がしかし、写真で見るとおりのプレハブの安っぽい建物は、何とかならんもんでしようかね。
この石碑のそばの川沿いには、「芭蕉の散歩道」と名づけられた遊歩道も整備されています。春にはさくらがきれいな、気持ちのいい遊歩道です。採茶庵跡の碑を見つけたら、俳諧師芭蕉の生活を思い浮かべながら、この遊歩道を散歩してみてはいかがでしょう。