第十六回 「永代寺の謎・消えた江戸六地蔵」

さて、前回は、永代寺が廃仏毀釈で廃寺になった、お話までしました。廃寺になったのは明治元年、まだ維新動乱の頃です。永代寺の廃寺に、当時のいかなる事情がからんでいるのか、詳しいことはわかりません。しかし、なくなっちゃった訳です。で、永代寺はなくなったけれど、永代寺の塔頭(たっちゅう、と読みます。大きなお寺の中にある小さな子寺)であった吉祥院だけが、残ったのです。これ、アヤシイです。なんで、吉祥院だけが残ったのか。 当時の吉祥院は、かなり広い寺域を持っていたようです。なぜそれがわかるか、というと、その吉祥院の中に、永代寺での出開帳で大人気を博した成田不動尊の別院、現在の深川不動尊が作られるからです。そして、深川不動尊は、吉祥院の土地のほとんどを使って、独立します。そして、ごく小さなお寺として残った吉祥院は、明治22年、廃寺となった永代寺の名を受け継いで、現在の「永代寺」となるのです。こうしてみると、まるで、吉祥院は深川不動尊を作るために残された、みたいに感じませんか?ここがひとつの謎です。永代寺は廃寺になったのに、塔頭の吉祥院が残され、その中に深川不動尊が作られ、小さな寺となった吉祥院が、永代寺となる。なんだか、最初から、永代寺をつぶして、深川不動尊を建てる作戦だった、と思われなくもないのです。深川不動尊を永代寺に取って代わるものとする、そういう計画が最初から存在したとすれば、(ま、存在しなかった、とするほうが自然でもありますが)この一連の流れは、納得がいくものとなります。ま、事実は永久にわかりませんけどね。

なにはともあれ、、吉祥院が「永代寺」の名を継いだことで、永代寺の名は深川に残りました。これは貴重なことです。今の永代寺が無ければ、私たちは江戸時代の永代寺のことを文献でしか想像できなかったでしょうから。永代寺が今も私たちの身近にあるのは、現在の永代寺のおかげです。

さて、旧永代寺には、「江戸六地蔵」と呼ばれる有名な六つのお地蔵様の一つがあった、ということです。この「江戸六地蔵」は、江戸時代、深川の正元というお坊さんによって発願され、江戸庶民の寄付を募って、江戸から延びる六つの街道の入り口に六つのお地蔵様が作られたそうです。そのひとつ、千葉街道沿いのものが、永代寺のお地蔵様だったのです。しかし、永代寺の廃寺とともに、この江戸六地蔵の一つだったお地蔵様も、壊されます。それだけの由緒があるなら、そのお地蔵様だけ取っておいてもよさそうなものですが、ぶっ壊しちゃいました。同じ深川の白河にある霊巌寺の江戸六地蔵は今でも健在ですから、なにか、永代寺を破壊することへの、特別な執念を感じます。「廃仏毀釈」といっても標的になったお寺は限られています。なんで永代寺は狙われたんでしょう。それも、永代寺の住職だった人は、前回も言ったとおり、旧永代寺の土地をほとんどそのままもらって富岡八幡宮の宮司になっていますから、永代寺の土地財産を狙うことが目標であったわけではなく、永代寺、という寺を破壊することに主眼があったようです。そして、・・・・謎は深まるばかりです。

永代寺の水子地蔵。最近のものです。

左奥のお地蔵様。小さいですけど・・・

入って左の地蔵堂。いつもきれいなお供えが絶えることがありません。

さて、「江戸六地蔵」はなくなってしまいましたが、現在の永代寺には、写真のように、沢山のお地蔵様がいらっしゃいます。みな小さなお地蔵様ですが、その分、ほのぼのとした、暖かい気持ちにしてくれるお地蔵様ばかりです。このお地蔵様と接していると、細かいいわれとか、追求する気持ちがなくなってしまいます。8月の「地蔵盆」には、灯籠を飾って「水子供養」もしめやかに、幻想的に行われます。「江戸六地蔵」はありませんが、現在の永代寺のお地蔵様をひとつひとつ、拝んでみてください。とても幸せな気持ちになりますよ。

(この記事は2006年に書かれたものです。)

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