第十三回 「深川龍神と亀鯉供養碑の真実」

昔からある手水台

お不動様の本堂の手前左側に、手を清める石の手水台があります。これはもう、わたしが子供の頃から、変わらずあります。竜の口から水が出るのもそのままです。子供の時分は、この水を普通に飲んでましたが、今は、この水を飲む人はいないですね。 この手水台の左側に、昔は、小さな小さな池がありました。そこに、亀や金魚が住んでおりました。今から2年前、平成六年に、この池を埋め立てて、今ある「深川龍神」が建立されたのです。しかし、それから・・・・・

深川龍神。これは新しい。

龍神の謂れ。

 

毎月28日の縁日のたびに、雨が降るようになったのです。私も覚えていますが、いやもう本当に、毎月のように、28日といえば雨が降りました。ま、考えてみれば、写真の龍神の謂れにあるように、龍神様は雨を降らす神様ですから、霊験あらたか、といえばそうなんですが、ここで、町の人たちに、こんな噂が立つようになりました。「こんなに縁日のたびに雨が降るのは、龍神様を作るときに池を埋め立てたとき、生き埋めにされた亀の祟りだ」。

平成6年ですよ、「亀の祟り」とはまあなんと古めかしい。そもそも、亀や金魚を生き埋めにするなんてことを、お不動様がするわけありません。しかし、この噂は大変盛り上がってしまい、ついに、祟りを鎮めるため、毎月28日には、亀鯉供養をするようになったのです。笑えるでしょう? 平成6年の話とはとても思えないでしょう。

深川龍神のとなりにひっそりと立っている、下の写真の「亀鯉供養碑」。 これは、平成6年のこの「亀の祟り」の騒ぎのときに建てられたもの、とばかり思っていたのですが・・・・

亀鯉供養碑。この碑の隠された真実とは・・・

しかし、この「亀鯉供養碑」に関して、インターネット上に書かれた記述を発見しました。なんと動物園ではたらく方のHPで、動物のお墓に関する記述です。この方は、この「亀鯉供養碑」の表に書かれた発起人や賛助員の名前を書き出しています。私は実は、そこまで全く見ていませんでした。ここで、その方の書かれたものを引用させていただきます。

発起人
(イロハ順)/五十嵐篤三/稲村要/堀吾一/堀義光/戸塚善一/加羽沢金之助/長池善次郎/宇井方一/上森昌次
山崎辰五郎/山田喜助/政木倉ニ/藤沼美喜三郎/福島秀雄/小林?吉/相羽喜三郎/赤倉善四郎/北原佐五衛
宮内銀蔵/塩崎三郎/新谷佐七/市東胤雄/清水平浩/清水新次郎/鈴木鉄次郎/杉田福太郎/○木富三郎
賛助員
一力/丸文/松葉/石井福寿園/石崎園/伊勢屋菓子店/遠山藥局/扇屋呉服店/近江屋酒店
大阪屋小間物店/旭湯 金子/天婦羅 高砂/長張柳市/山屋八万雄/山城屋酒店/築地四 山野井弥之助/○○山正次郎/東京○又 菱沼組/東京○又 諏佐組
京○ 篠原虎之助/小松屋化粧品店/土倉玩具店/深川 ミリオン座/島田砂糖店/杉原電機商會/江東三寸 鈴木組/本漆枡屋 杉田組/秋山照英/松田照豊/守屋忠平/沢田信太郎
以下裏面に続くと思われるが裏は石の表面が欠落して読めない。

ちなみに題字は秋山照英書、とあります。

懐かしい名前ばかりです。発起人の名前は、私たちのおじいちゃんの世代の人たちです。賛助員のお店には、今でもあるものも多いですが、無くなったお店も多くあります。「旭湯」は、参道をひとつ入ったところにあった銭湯、わたしもずっと行ってました。そして、如実に時代を語ってくれるのが、「深川ミリオン座」。ここにも名前のある、永代通りのお茶屋さん「石崎園」の裏に、私が小学生の頃まであった映画館です。昭和44年ごろまであったのではないでしょうか。つまり、この「亀鯉供養碑」の出来たのは、まだミリオン座のあった昭和44年以前なのです。つまり、私が思っていたのとは違って、この「亀鯉供養碑」は、平成6年に、「亀の祟り」を鎮めるために建てられたのではなく、昭和44年以前に建てられたものだったのです。

つまり、「亀や鯉の祟り」が昭和44年以前にあった、ということで、平成6年にそれが復活した、ということなのです。では、この「亀鯉供養碑」が建てられたのは、どんな「祟り」のせいなんでしよう。

ちなみに、字を書き、発起人にも名を連ねている「秋山照英」という人は、深川不動堂の先々代の貫首(深川不動堂で一番偉いお坊さん)さんです。もともとこの「亀鯉供養碑」が深川不動堂にあったものならば、発起人に貫首である秋山照英氏が名を連ねるはずがありません。つまり、この碑は、もともと深川不動にあったものではないのです。

ここで、近所のお年寄りの話を思い出しました。むかし、深川公園には、池があったそうなんです。多分、江戸時代の「永代寺庭園」からある由緒ある池だったのでしょうが、今はない。つまり、埋め立てたんでしょうね。今の野球場のあたりに池はあったに違いありません。昔のことですから、その池に住みついていた亀や鯉を助け出さないまま、面倒くさがって、そのまま生き埋めにしてしまった、というのはありそうな話です。この「亀鯉生き埋め」は町の話題になったことでしょう。そして、その後、なにか「祟り」があったのでしょう。その「祟り」を鎮めるために、この「亀鯉供養碑」は建てられた。この発起人や賛助員の数の多さからいって、この「祟り」は「縁日に雨が降る」程度の祟りではなさそうです。なにか大きな「祟り」。

私が子供の頃、かつて深川に大被害をもたらしたという大きな水害のことを、当時のお年寄りの方が、よく話してくれました。今高速道路になっている、深川公園の裏の川の水が、堤防を越えてあふれ、町中腰まで水につかる大水害になった、という話です。これです。私は思わずひざを叩き、夜中だというのに、深川公園にある、深川の水害記録板に向かいました。写真が夜撮られたものなのは、この理由です。

深川公園にある、過去の水害の記録板。この高さまで、水が来たのです。

ありました。時代的に該当するのは、昭和33年の台風の水害。昭和24年のキティ台風のほうが被害は大きそうですが、昭和30年代まで深川公園の池はあったようなので、これは古過ぎます。多分、昭和33年か前年に深川公園の池が埋め立てられ、そのあとすぐに、台風による大水害が起こった。昭和40年代に子供時代を過ごした私などに、皆さん昨日のことのようにこの水害のことを話していらっしゃいましたから、非常に大きな水害だったのでしよう。そして、水害を引き起こした川は、深川公園のすぐ裏ですから、「あの水害は、深川公園の池を埋め立てた時、生き埋めにされた亀や鯉の祟りだ」という噂が、町中に流れた。そこで、生き埋めにされた亀鯉の祟りを鎮め、ひどい水害が二度と起きないよう、願いを込めて「亀鯉供養碑」が建てられたのでしよう。これですべて、納得がいきます。

ここまでわかると、平成6年の「亀の祟り」の噂も、あながち馬鹿馬鹿しい、時代遅れの迷信、とばかりはいえないことがわかります。龍神様を建てるため池が埋め立てられたあと、縁日に雨が降り続いたとき、昭和33年の大水害を知るお年寄りたちは、すぐに「亀鯉の祟り」を思い出したのでしょう。そして、あのような大水害が再び起きないように、かつての「亀鯉供養碑」を供養し、お経を上げてもらうよう願ったのです。縁日に雨が降る、という「祟り」ではなく、あの恐ろしい大水害のような災害が起こらないよう、ふたたび亀鯉を慰霊したのです。昭和33年の大水害が、どんなにお年寄りたちにとって、40年の時間があっという間に巻き戻るほど、強烈な記憶であったかが、よくわかります。

亀鯉供養碑、この石碑ひとつに、こんな歴史が秘められていた、とは私自身、大きな驚きです。

(この記事は2006年に書かれたものです。現在多くのものは現存しません)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です