第十二回 「団菊左揃い踏みの燈明台」
前回からご紹介している「五代目尾上菊五郎の碑」のすぐ目の前にそびえているのが、はっきりいって古ぼけた「燈明台」。私が子供の頃からありましたから、古いものだとは思っておりましたが、調べてみますと、実は、明治31年、日清戦争の戦勝を記念して建立されたものだそうです。すごく古いでしょ。そして、この燈明台にも、沢山の寄贈者の名前が刻まれており、その名前を見ていくと、当時、どんな人たちが熱心にお不動様を信仰していたかが、よくわかります。
まず、目を引くのが、当時「団菊左」と並び称され、名優の誉れ高かった、九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左団次の名前が三人並んでいるところです。他に娯楽が無かった頃ですから、この三人は、今で言うところのイケメン・アイドル三人衆、といったところでしょう。多分人気を競い合っていたであろうこの三人、一人がこの灯明台に寄贈するとなると、負けてはおれん、と結局三人とも寄贈者に名を連ねたのでしょう。
団菊左が名を連ねるとあっては、他の役者も右へならえ、前回の玉垣にも名前のあった、五代目中村芝翫、中村福助や、沢山の歌舞伎役者の名前が連なっています。
今では、特に目立つというわけでもないこの燈明台ですが、高い建物のまるっきり無かった明治時代の深川で、この高い建物はすごく目立ったんでしょうね。だからでしょう、寄贈者はわれもわれもと殺到した、とくに、建物が高い分、名前を刻む場所が多いですから、沢山の寄贈者の名前が、この燈明台には刻まれています。
おなじみの魚河岸のかたがたのほかでは、特に目立つのは、花街関係。玉垣には入れてもらえなかったけど、燈明台でついに名前を刻んでもらったのでしょう。「○○楼」というのは、料亭じゃなくて遊郭でしょうね。新吉原の遊郭の名前もかなり見受けられますが、やはり多いのは「地元」洲崎の遊郭です。
「洲崎の遊郭」ってご存知ですか?深川界隈は、江戸の昔から遊里の多かった場所で、八幡宮の裏あたりは江戸時代「櫓下」と呼ばれる「岡場所」でした。幕府公認の遊郭街だった吉原に対し、非公認の「岡場所」であった櫓下は、吉原より価格も格も落ちたようですが、大変栄えたようです。そしてその流れを汲んで、今の門前仲町と木場のちょうど中間くらいに出来上がったのが「洲崎」の遊郭街です。その後「赤線」と呼ばれ、昭和33年の売春防止法施行まで、繁栄しました。ただ、現在、洲崎の遊郭の名残どころか、記録もほとんど何も残っていません。江東区の文化財資料からも抹殺されていますし、なんせ「悪所」ですから、語り伝えられる部分も少ないのです。江戸風俗に欠かせない「吉原」については、比較的研究もすすみ、わかっていることが多い(しかしそれも、江戸時代までですが)のに対し、洲崎のことはほとんどわからない。。私自身も、洲崎の遊郭のことを、当時を知る近所の年配の方に、酒の席などでインタヴューしてみるのですが、みんな口が堅い。「俺はあんまりそういうところは・・・」なんてっちゃって、ちっともしゃべってくれません。当時の洲崎で遊んだ最後の人たちも、もうそろそろ皆さんご高齢になってきましたから、あと十年位したら、当時の洲崎の遊郭のことは、何もわからなくなってしまうに違いありません。そういう意味では、この「燈明台」に刻まれた洲崎の遊郭の名前は、今後貴重な資料となっていくかもしれません。
中でも一つ目を引くのが、「洲崎 引手茶屋 福本」の名前。「引手茶屋」というのは、遊郭に遊びに来た客が、入る茶屋です。そこから、好みの遊女を、その遊女の所属する「置屋」から呼んで、遊ぶ、という場所です。よく時代劇に出てくる遊郭は、紅殻格子の中に遊女が沢山いて、客を引く、というものですが、多分それらは「○○楼」での遊び方で、「引手茶屋」というのは、それより高級な遊里遊びです。よく、花魁の道中、というのを再現するショーをやっていますが、あれは、遊女の最高格である花魁(おいらん)が、置屋から客の待つ引手茶屋へ向かうときの模様です。吉原より格が落ちる、といわれた洲崎には、もちろん花魁なんかはいなかったでしょうが、それにしても、洲崎にも、引手茶屋に置屋から遊女を呼ぶ、などという、贅沢で格の高い遊び方があったのか、というのは、興味深いことです。
洲崎の話になると、つい興奮して話が長くなってしまいます。洲崎については、また別の回でじっくりお話したいと思います。それまでに、じっくりインタヴューしておくこととします。
この「燈明台」、今度じっくり眺めてみてください。明治の深川界隈の息吹が、実によく、伝わってきますよ。
(この記事は2006年に書かれたものです。現在、燈明台は深川公園内に移築されています)