第十一回 「尾上菊五郎の碑と玉垣」
前回の続きです。前回、「五世尾上菊五郎の碑」の後ろの塀(玉垣、って言うそうです、初めて知りました)は、この碑が出来たのと同じ大正年間だろうって申し上げましたが、新発見です。この玉垣をもう一度じっくり調べた結果、この玉垣の一部に、「明治22年」と刻まれているのを発見しました。そうです。
この玉垣は、「五世尾上菊五郎の碑」よりずっと古いのです。明治時代の塀、なんて、かなり貴重なものですよね、これはすごい、驚きです。 この玉垣は、「岩井講」という信心の人たちによって奉納されたらしく、その講元「富士屋金平」さんとその奥さんふでさんの名前が大きく刻まれています。前回紹介した歌舞伎役者たちは、明治22年だとすると、代が違います、訂正しなきゃいけませんね。市川左団次は初代、「団菊」と並び称され、「団菊左」といわれた名優です。中村芝翫は四代目、豪快な立役として活躍した人だそうです。当時の著名な歌舞伎役者たちが、この玉垣の奉納にこれだけ名前を連ねている、というところに、この「深川不動堂」の当時の人気のほどがうかがえます。深川不動堂のお堂が出来たのが、明治14年ですから、それからほどなく、この玉垣は奉納されています。つまり、出来た当初から、この深川不動堂は、著名な歌舞伎役者をはじめ多くの人が競って玉垣を奉納するほどに人気のある、大変な信心を集めていたお寺だったわけです。すごい。
この玉垣奉納の講元、富士屋金平さんは、「富士藤」という大工集団の親方、のような人だったようで、下の写真に見るように、富士藤の塗師、木具師、挽■師、鍛冶屋、などといった職人たちが、一番目立つ一等地に、名前が刻まれています。
そのほか、奉納者には、火消組、ポンプ組(当時最先端の消防組織だったんでしょうね)などの名前があります。そのほか、面白いのは、「干鰯仲買」のめんめん。江戸から明治にかけて、現在の白河二丁目や冬木、佐賀町など何ヶ所かに、田畑の肥料にする干した鰯を取引する「干鰯場(ほしかば)」というものがあったんだそうです。鰯が、おもに銚子から舟で運ばれ、そこで取引されたそうです。大変な賑わいであったようで、つごう四千坪以上の土地があったそうです。その「干鰯場」の仲買ですから、けっこう羽振りがよかったのでしょうかね、彼らもずらっと名前が刻まれています。ただ、「富士藤」のめんめんに比べると、裏側の通り沿いですからね、格が劣る、ともいえます。この「干鰯場」は、干鰯が、北海道や外国産の肥料に押されて消えていくのとともに、消滅した、ということです。江戸時代には、干した鰯を畑の肥やしにしてたんですね、明治以降には、外国から輸入された安い大豆粕や、大正時代には化学肥料も使われるようになる、そうです。決して人糞だけじゃなかったんですね。わたしたちは「人糞撒いてるローテク農業」というイメージしか持ってませんでしたから、かなり意外です。
いやあ、明治22年の玉垣、意外でした。そしてその玉垣に刻まれた人々から、当時の生活が生き生きと浮かび上がってきますよね。ちなみに、このほかの玉垣は、関東大震災で倒れてしまい、昭和になってから建てられたそうです。昭和には、どんな人たちが玉垣を奉納したんでしょうね、興味ありますよね。それはまた別の回で。
(この記事は2006年に書かれたものです。現在、一部見られなくなっている部分もあります)