第三回「横綱力士碑」
富岡八幡宮の社殿の裏側の木立の中に、ひっそりと佇んでいるのが、「横綱力士碑」です。三つ並んだ巨大な石が横綱の巨体のようで、実に立派なものです。写真ではよくお分かりいただけないと思いますが、本当にでかい。夏など、蝉しぐれの中でこの横綱力士碑の前に立っていると、なにやら厳粛な気持ちになります。 この巨大な石に、歴代の横綱の名前が刻まれています。そもそも江戸時代この八幡宮の裏手の場所で、神社への奉納として勧進相撲が行われたのが日本における相撲興行の発祥、ということでこの地に横綱力士碑が建てられた、とのことです。相撲はもともと、神事に由来します。「四股を踏む」などは悪霊をおさえる鎮めの儀式として、古代から行われていた所作です。ただ、歌舞伎などに登場する相撲取りなどから考えると、江戸時代の相撲取りは、神事に関わる人間、というより、もっと俗っぽく役者と力自慢を足したような、今で言うとプロレスラーのような存在だったようです。だから、相撲興行が神社で始まったからといって、相撲興行そのものが格式が高かった、とはいえないでしょうね。神社のお祭りに出る見世物小屋よりはずっと上だったでしょうが、やっぱり「大男の力自慢の見世物」という色彩は強かったんだろうと思います。
次の回でもお話しますけれど、もともと相撲の最高位は「大関」でした。「横綱」というのは、「俺は並みの大関じゃない、もっと強いぞ」という人間が勝手に名乗り始めたのが創始なのだそうです。だから、江戸時代からの連綿とした相撲の歴史の割には、横綱はまだ「六十八代」です。
新横綱が誕生すると、その新横綱はこの「横綱力士碑」に名前を刻みに訪れ、八幡宮の社殿の前で土俵入りを披露してくれます。ただ、土俵入りまでやってくれるようになったのは、たしか「若貴」からだったと思います。それまで新横綱は名前を刻みに(いやもちろん自分でその場で刻むわけじゃありませんよ) 訪れて来てはいたようですが、もっと地味に終わっていました。今では土俵入りまでやってくれますから、地元民としてはうれしい限りです。最近では社殿の前で「ちびっ子相撲大会」が開かれたり、「相撲興行発祥の地」らしいイベントも行われるようになりました。
しかし、改めて石碑に刻まれた横綱の名前を見ると、懐かしいですねえ、大鵬柏戸、は其角主人には古すぎますが、二代目玉の海とか、琴桜、もちろん北の湖、二代目若乃花、輪島、みんな好きで応援してたよなあ、なんて思い出します。皆さんはどの横綱を懐かしく思い出すのでしょうね。栃錦、吉葉山、初代若乃花、もっと古く谷風とか知っている人いるかなあ。そんな風に見ていると、ありますあります、新しいところに、あの話題の不仲の兄弟。仲良く並んでね。同時に横綱になったんでしたっけ。若のほうが後だったっけか。最近のはさびしい限りです。武蔵丸の次が朝青龍、ずいぶん新横綱って登場してないんですね。はやく新横綱が現れて、ここに名前を刻んで、わたしたち深川の人間に土俵入りを見せてほしいものです。
一番上の写真に「魚がし」の文字が見えますね。多分築地の魚河岸の人たちがあの部分、もしくはもつと他の部分も含めて寄贈した、のだと思われます。深川の神社仏閣には、この「魚河岸」の文字は多く刻まれています。魚河岸の人たちは信心深くきっぷ良く、多くの奉納をしたようです。いまでも河岸の人って、さばけてて金離れが良かったりしますから、昔はすごかったでしょうねきっと。「寄贈者」に関しては、これからの回でしばしばじっくりお話したいと思います。これが面白いんですよ、ほんとに。お楽しみに。
(この記事は2005年に書かれたものです)