第十回 「五代目尾上菊五郎の碑」
深川不動堂の向かって右の奥に、ひっそりと、あまり注目を浴びることなくあるのが、「五世尾上菊五郎の碑」です。このなんてことのなさそうな石碑、でもよく見ると、この石碑には明治から大正期の歌舞伎に関する薀蓄がいっぱい詰まってるんです。今回のお話は、歌舞伎に全然興味のない人にはちょっとつらいかもしれませんが、歌舞伎を通じて、ある時代の息吹を感じてみてください。
五代目尾上菊五郎は、幕末から明治にかけて大活躍した名優で、「知らざあ言って聞かしゃあしょう」の名台詞で有名な「弁天小僧女男白浪」などの河竹黙阿弥作品の初演や、「散切もの」と呼ばれた当時の現代劇まで、幅広く活躍し、九代目市川団十郎とともに「団菊時代」を築きあげました。「大関力士碑」のところで、明治時代に建立された「大関力士碑」の寄贈者の名前に「九代目市川団十郎」の名前がある、というお話しましたよね。八幡宮と不動堂で、当時の「団菊」が競い立っている、というのもなかなか楽しいでしょう?
左の写真の碑文にあるとおり、この碑は大正5年建立。もちろん五代目の没後です。題字を書いた「伯爵土方久元」は、土佐藩出身で、維新の志士から明治政府で宮内大臣などを歴任した大貴族。この久元の孫が、築地小劇場を小山内薫らと創始した「新劇」の創始者の一人にして、共産主義者として国外追放となったり最後には爵位を剥奪されて投獄された、数奇な運命をたどったことで有名な土方与志。
建立発起人たちがまた、豪華絢爛。筆頭にある尾上梅幸は、五代目の養子で、名女形。次の尾上菊五郎は六代目、五代目の実子で、踊りの名手として名高く、六代目菊五郎の振付けた「藤娘」や「保名」が、今月の歌舞伎座にかかっていますよ。坂東彦三郎も五代目の実子。最後の市村羽左衛門は十五代目、五代目菊五郎の甥にあたります。今で言う「美形」歌舞伎役者として大人気だったのですが、実は十四代目の養子で、母親は芸妓、父親はフランス系アメリカ人で南北戦争の英雄、その後明治政府の招きで来日していたルジャンドル将軍、つまり彼はハーフだったのです。このことは十五代目の存命中はかたく伏せられ、死後発表されたそうです。
上の写真の石碑のちょうど後ろ側の塀が、この碑と同じく作られたもののようで、やはり歌舞伎役者たちの名前が刻まれています(ちなみに横の塀は新しいもののようです)。市川左団次は二代目。先ほど出てきた小山内薫らと自由劇場を始めるなど、革新的な活動をした役者ですが、五代目菊五郎との関連は不明です。中村芝翫は、のちの五代目中村歌右衛門、名女形として知られ、晩年、当時のお白粉に含まれていた鉛の鉛毒で足腰が立たなくなり、座ったまま女形の数々の大役を演じきった、という伝説的な人です。彼は、孫の七代目中村芝翫(現存)を六代目菊五郎に託しているくらいですから、なんらかの縁戚関係があったのでしょう。中村時蔵は、大正5年当時ですから、二代目時蔵です。この人も、五代目菊五郎との関連は不明です。
さて、一体全体なぜ、名優尾上菊五郎を讃える石碑が深川不動堂の境内にあるのでしょう。菊五郎といえば「音羽屋」というくらいで、上野音羽町界隈に所縁のあるはず。深川と菊五郎を結びつける縁は思いつきません。たぶん、有志総代として名前が刻まれている田村武義という人が深川の人だったとか、なんでしょうね。ちなみに、六代目菊五郎は、かつて深川不動尊の参道にあって、二十年近く前に閉店しているにもかかわらず、今でも尋ねる人の多い名店「清水のきんつば」の大ファンだったそうで、自分できんつば作りに挑戦して失敗したりしていたそうです。そのことも少し、関係しているかも。
もっと楽しい推理もあります。この深川不動は「成田山」の別院です。成田山、といえば「成田屋」市川団十郎です。前回もお話したとおり、成田山と団十郎の縁は深く、今でも成田の本山の団十郎のお練は、正月の恒例です。そんな成田山の別院、深川不動、いわば成田屋の鼻っ先に、宿敵菊五郎の碑を建てて成田屋の鼻を明かしてやろう、といういたずら心でここに碑を建てた、という推理。ま、当たっていないとは思いますが、こういう推理をしてみるのも楽しいでしょう?
「名優五世菊五郎の碑」には、こんな感じで、明治大正期の歌舞伎の薀蓄がいっぱいです。侮りがたいというか、これは実は、かなり貴重な歴史的価値を持った石碑なのです。もっと注目され、大事にされていい石碑だと思います。観光資源として盛り上げたいものです。そのためにはまず、現世七代目尾上菊五郎に、この貴重な石碑を訪れてもらいたいですね。名優五代目に敬意を表して、お練りとかやってくれたら最高なんですけどね。これを読んでいる方、だれか菊五郎さんに掛け合ってくださいませんか? お願いします。
(この記事は2006年に書かれたものです。この碑は現存しません)