第一回「富岡八幡宮」
さて、地元的深川観光案内、といっても、やっぱり第一回はここ、「富岡八幡宮」でしょう。富岡八幡宮自体の詳しい情報は、神社のホームページをどうぞ。 富岡八幡宮は、もちろん江戸時代の創建です。もともと、今の砂町に、大変有名な八幡宮があったのです。この八幡宮は大田道灌が崇敬していたくらい古く由緒正しい八幡宮だったのですが、なんせ辺鄙なところにあるし、洪水の被害もあったらしく、長盛法師という人によって現在の地へ移され、「富岡八幡宮」となった、ということです。
富岡八幡宮は、江戸随一の広さを誇る八幡宮で、江戸三大八幡のひとつに数えられ、その近辺にある歓楽街とともに、江戸の庶民にとても親しまれていた、とのことです。
当時は「神仏混交」といって、神社とお寺が一緒に祭られていました。で、富岡八幡宮と一緒に祭られていたお寺は「永代寺」。深川公園にある小さな小さな石碑によりますと、八幡宮を創建した長盛法印というお坊さんが、「八幡宮別当」として永代寺を創った、とあります。お坊さんが神社を開いた、ということ自体からして現代人にはまったく理解不能ですが、江戸時代には、神様より仏様のほうがはるかに厚く保護されていたようで、「神仏混交」の場合、たいていお寺のほうが大きかったようです。富岡八幡宮と永代寺の場合も、江戸時代の古地図を見ると、まあ、そもそもお坊さんの開いた神社とお寺ということもありますから、富岡八幡宮より、永代寺の寺域のほうがはるかに広い。富岡八幡宮が江戸随一広さを誇っていたことと考え合わせると、当時の寺と神社の力関係がわかります。そもそも、この界隈の「門前仲町」という地名は、古地図には「永代寺門前仲町」と記されています。八幡宮のほうがずっと知名度が高かったようなのに、それでもお寺のほうが偉かったんでしょうか。
しかし、明治時代に入ると、「廃仏毀釈」の嵐がやってきます。これは要するに、明治政府が、西洋の一神教の神様に対抗するために、日本の神道の神様だけを残して「外来の」仏様はみんなぶっこわせ、という滅茶苦茶なお達しです。あまりの滅茶苦茶さ加減にあっという間にこのお達しは取り消されるのですが、「永代寺」はまともにこの波をかぶってぶっこわされ、廃寺となってしまいます。で、永代寺がぶっ壊されたあとのところはどうなったか? 江戸時代には永代寺と合体していた富岡八幡宮がみんなもらっちゃったみたいですね。で、そこに神社を建て増すのではなく、人に住まわせた。だから今現在、富岡八幡宮はこの辺の大地主です。かくいう其角も、富岡八幡宮を地主にいただいております。地代はすごく安くしてもらっていてありがたい地主様です。 現在、深川不動の参道、其角のまん前にある「永代寺」はその後復興されたもので、江戸時代の永代寺とは厳密に言うと違うようです。この「永代寺」については、また後の回でお話します。
富岡八幡宮、江戸一番の八幡様、と謳うだけあって、大鳥居から社殿にいたるまで本当に立派な神社です。でもこれよれずっと広かった永代寺ってどんなだったんでしょうね、そんな風に江戸の時代に思いをはせてもいいかもしれませんね。ではまた。次は八幡宮の中にあるいろいろなものをご紹介していきます。
(この記事は2005年に書かれたものです)