第七回 「歌仙桜の碑」
さて、前回の「お富士さん」のところで、江戸時代、ここの「お富士さん」の山開きと共に、名高い永代寺(富岡八幡宮)の庭園が開放されるのが江戸下町の春の風物詩になっていた、と書きました。その名高い庭園、そこで名物として知られていたのが、「歌仙桜」です。 この庭園は大変有名なものであったようで、「江戸名所図絵」とかあの有名な安藤広重(ちなみにわたしは永谷園のお茶漬けにおまけでついてた広重の東海道五十三次を集めていた世代です・・・)の「名所江戸百景」にもこの永代寺(富岡八幡宮)庭園の絵があります。そして、そのお寺の門前で眼医者をしていた人に度会園女(わたらいえんにょ・・・と読むと思われます)という女性がい、て、この人は芭蕉の弟子で俳人でもあり、この庭園に「三十六歌仙」にちなんだ36本の桜の木を寄贈したのです。この桜は「歌仙桜」と呼ばれるようになり、評判となっていったのです。「歌仙桜」はその後、代を重ね、二代目歌仙桜が戦前まであった、とのことですが、明治時代に庭園そのものはすでに失われていましたから、本当のところは実はよくわかりません。ちなみにその庭園の跡は、「深川公園」となり子供がたくさん遊んでいます。
で、その名高い「歌仙桜」の名残を今に留めるのがこの「歌仙桜の碑」なのです。場所は富岡八幡宮と道路を隔てた深川不動側の深川公園の中。不動尊の参道をはさんで反対側にある広いほうの深川公園と区別して私たち地元民は「第二公園」と呼んでおります。知らなければほぼ確実に見逃してしまうちっぽけな石碑です。なあんだ、みたいな石碑で、これが江戸の由緒を伝える、といわれても、まったくピンときません。上の写真がその「歌仙桜の碑」で、真ん中の写真がその隣の木の陰にひっそりと立っている「歌仙桜の碑」パート2。これは少し大きくて立派ですが、わたしもこの写真をとるので初めてこの石碑の裏側までじっくりと観察しました。
この大きなほうの「歌仙桜の碑」には、「歌仙桜」の名前の由来となった三十六歌仙(柿本人麻呂とか小野小町とか有名な人たち)の和歌が刻んである、と思いきや、ここに刻んであるのは明らかにみんな俳句です。「歌仙桜」を植えた園女という人は芭蕉の弟子の俳人だったのですから、まあ、俳句でもいいでしょうが、「歌仙桜」とどういう関係なんでしょう。どうもこの碑を建てるときに桜や園女、歌仙桜をめぐる俳句を詠んで刻んだようなのですが・・・・・わかりません。碑文が読める方、ぜひこの碑の由来を教えてください。
この「歌仙桜の碑」のある公園とテニスコートをはさんだ反対側に小さな公園があって、そこにもなにやら立派な石碑があります。一番下の写真です。明治時代に立てられた由緒正しき石碑らしいのですが、碑文がすべて漢文で刻まれており、理解不能。表に刻まれているのはたぶん漢詩ですが、何の由来かわかりません。こういうのがわかると楽しいでしょうね。勉強しなくちゃ・・・・・
(この記事は2006年に書かれたものです)